東京|天空樹Risen in the East

20082016
非常階段東京

押上に新東京タワーができるという噂を耳にし、興味を持ち始めていたちょうどその頃、東京スカイツリーの完成予想図用の背景写真を撮って欲しいという依頼をある会社から受けた。タワーが将来眺望できる浅草周辺の街並みを撮影し、話を聞くうちに、徐々に関心が強くなった。そして、これは自分が生まれ、被写体にしてきた東京の東側に起こる大きな変化だと気づき撮影を続けることにした。

日々変化するスカイツリーをどう捉えていけばいいのか試行錯誤が続いた。実際にどれだけ高くなるのか、数字で理解してはいても実際の光景は自分の想像を超えていく。当初は今まで通り、大判カメラとネガフィルムの組み合わせで撮影していたが、次第に被写体の変化の大きさや速さに対応しきれないと感じ、機動性の高いデジタルカメラを使用することにした。そして被写体をより精密に捉えるため、複数のカットをつなぎ合わせて一枚の写真を作る方法に切り替えた。これだとスカイツリーの成長に合わせてこちらもフレームを作っていくことができる。カメラのフレームにタワーを押し込めるというより、タワーにあわせてフレームを作る。まるで被写体がこちらに撮影姿勢の変更を要求しているように感じた。そしてこの変更はどこか気持ちが良かった。従来の撮影方法だと、ある風景を前にして体感する広がりは、カメラのフレームによって断ち切られてしまう。デジタルカメラでの撮影は、複数の画像をつなぎ合わせることで、ディテールを損なうことなく自分の体感に合わせたフレームを新たに作り出すことができるのだ。

これまでは、撮影のための条件を絞り込むことで開けてくる世界を見ていこうと思っていた。前作「非常階段東京」では、撮影時間やカメラをセットする場所、大気の状態を限定し、大判カメラで被写体を細かく描写することで、その土地の持つ歴史を背景にしたその場所固有の様相や、街を形作っていく人間の意志を捉えようとした。しかし、撮影条件を限定するということは、同時に自分が見ている他のものを切り捨てていくことだ。今回の撮影では、今までカメラを向けず切り捨ててきたものを積極的に取り込んでいった。写真は種類もフレームもばらばらになるけれど、タワーがそれらをまとめる糊のような役割を果たした。

複数のショットを1枚の写真にするということは、1枚の中に複数の瞬間が存在するという事だ。人間は1つの場面を見ている時も、せわしなく眼球を動かして複数のイメージに焦点を合わせながら、頭の中でそれらを1つに組み合わせている。だからデジタルカメラを使ったこの撮影方法はむしろ、人間の自然なものの見方に少しだけ近くなっているのかもしれない。

スカイツリーと街の撮影を続けていくうちに、以前にも増して絵巻物や浮世絵に関心が向くようになった。絵巻には1つの画面に異なる時間が存在する異時同図法という表現がある。また、浮世絵に描かれた江戸の風景は、まさに当時の人間の生活、景観の記録である。東京の原型が江戸時代に形成されたのであるならば、今の東京を撮る自分が浮世絵の世界にシンパシーを抱くのも自然なことだろう。街の中で多くの人々がそれぞれに色々な事をしている。その様子が細かく描かれた、中心を持たない画面の中を視線がいつまでもさまよう。そんな昔の絵の在り方は自分の想像力を刺激する。

東京では、江戸からの歴史、大地震や戦争の記憶などがその土地に固有の雰囲気を与えている。「非常階段東京」はその特有の雰囲気(ゲニウス・ロキ、地霊)を捉えようとしたものだと言えるが、今回もスカイツリーを介して、それを感じ取り、写真に落とし込んでいった。戦火を奇跡的に逃れた、京島界隈の歴史ある町並みの向こうに最新のスカイツリーが見えると、様々な歴史の層が入り混じる東京の厚みを強く感じる。また、浅草に当時の東京のランドマークだった凌雲閣(浅草十二階)があった事を思うと、土地の持つ記憶がスカイツリーを呼び寄せたかのようにも想像してしまうのだ。

スカイツリーは土地の歴史の中に現れ、その場所の記憶に加わることで、これからも東京を歩き、撮り続ける私を刺激してくれるに違いない。